竹下育男あて 32・4・2 [勝野睦人書簡集]
(竹下育男あて)
御無沙汰申し分けありません。僕は明後日の朝上京します。こち
らで嫌な事ばかり続出した後ですので、あなたにお行き合い出来る
のがとても楽しみです。詩のことはここ二十日程、故意に忘れてい
ました。だから今度のロシナンテにも、旧作を載せることになりそ
うです。
そちらはもうすっかり暖かでしょう。信州もぼつぼつというとこ
ろです。でもこの土地の魅力的な時期は、なんといっても二月頃で
すね。土地全体が、いくつかの丘陵から出来ているので、それらが
むき出しの時がよいわけです。夏には樹木がおい茂るために、輪郭
が見失われてしまいます。
僕のアトリエの窓から見える図のひとつは、獣の背中を思わせま
す。田中武好みの不気味なものです。中腹は桑畑と雑木林で被わ
れ、頂の一部分だけが墓地になっています。大小数々の石塔がずら
りと並んで、夕日に白く浮き出している様なぞ、見方によっては美
しいものです。この土地には、こういった墓地がいたる所にありま
す。竹藪の蔭、坂道の脇、段々畑の片隅などに、五つ六つの石塔を
並べただけのものもあれば、傾斜地を一面に埋めつくしているのも
あります。どちらの印象もしかし明るく、はればれとしています。
藁屋根や水車と同様に、すっかり自然の景物になり澄ましたこの石
の群れは、もう個々の死者のことなど忘れているようです。ときとし
てそんな一群にまざって、馬頭観音の石碑があります。又、殆んど
形をなさない地蔵像もみえます。こうしたものたちをじっと見てい
ると、素朴な人々の信仰が、石というものにどれ程たやすく結びつ
ものかが、わかるような気がしてきます。石の依怙地な沈黙ほ
ど、人間をなぐさめてくれるものはないようです。では
32・4・2
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