竹下育男あて 32・1・9 [勝野睦人書簡集]
(竹下育男あて)
今僕のこころは、「無風状態」におちいっています。目をみはら
なくては物はみえない。耳をそばたてなくては音は聞えぬ。そうし
て無理をしなくては「考え」られない。無理をして遠いところまで
出かけなければ、言葉が得られぬーーまあそういった状態です。
だから詩なんぞ無論かけない。あなたのお手紙にも又御返事が出
来ない。(本当に申し分けがありません)ただ出来るのは絵をかくこ
とだけーーそれも野外スケッチです。
毎日山路をうろついています。
[×] [×]
これは一種の病気のようなものです。上京するころまでは恢復す
る見込み。又いやでも「言葉」に囲まれ、音を上げるはめ
となるでしょう。ーーあなたと同様……。では
ヘントウセン ハ ソノゴ イカガデスカ? 6日のサンチョノ
ヘンシューハ ウマクユキマシタカ
ナニカ イイホン ヨミマシタカ?
32・1・9
ロシナンテ同人あて [勝野睦人書簡集]
(ロシナンテ同人あて)
賀正
年があけると
わたしの空へも
だれかが ちいさな凧をあげる
年があけると
わたしのなかでも
追羽根をつく音が かすかにきこえる
元旦
32・1・1
竹下育男あて 31・12・29 [勝野睦人書簡集]
(竹下育男あて)
お便り只今拝見しました。大変なことになってしまいましたね。
あなたは極端な暑がりで又寒がりだから、そんなことにならねばよ
いがと、心配していた矢先でした。本当に気をつけて下さい。扁桃
腺という奴はたしかに始末が悪い。僕も何回となくやられてこりて
います。
ところで御病気中のところ誠に恐縮ですが、お願いがひとつある
のです。谷川俊太郎、鮎川信夫、高野喜久雄の住所を知りたいので
すが……。はがきになぐり書きでもして送って下さい。年賀状を出
そうと思いたったので……。勿論無理をなさらなくても結構。そん
なことでまた熱でも出たら大変だから。
あなたに才能がないなんて、とんでもない。でもそういうことは
あまり考えない方がいい。自分で自分の後頭部の格好を知ろうとす
るようなもの。不健康です。熱のせいですよ。
「詩学」で河野さんがほめられていますね。谷川俊太郎より上出
来だって……。彼女、ずいぶんうれしいでしょう。こういうきっか
けから奮起して、いい詩をジャンジャン書いてくれるといい。彼女
のことだから期待できそう。
来年はロシナンテの当り年じゃあないかな…… デハ オ大事ニ
31・12・29
竹下育男あて 31・12・26 [勝野睦人書簡集]
(竹下育男あて)
こちらへ来て四日目から風邪にやられてしまって、お便りも出来
ず御無礼しました。一昨日からどうにかよくなりかけてきたので、
手はじめにペンをとったところが次々と詩が書け、われながらあき
れております。この年の暮はもう何も読むまいと思って、十四五冊
の本しか携えてきませんでしたが、その中から抜き出してみたのは
リルケの詩集だけです。但し「花の店」は汽車の中でみました。
「信濃」という散文詩がひどく気に入りました。”血管のようにさ
みしい鉄道地図を拡げると……”こういう憎らしくなるような詩行
があります。
なおロシナンテは、印刷所の方へ問い合わせたところ、二十日に
そちらへ発送したとか、正直なところ、まだよく読んでおりませ
ん。ここ四、五日位の間、そっと自分の詩の中にとじこもっていた
い気がするので……。では
31・12・26
河野澄子あて 31・12・19 [勝野睦人書簡集]
(河野澄子あて)
ゆうべこちらにつきました。駅の構内を出ると外は粉雪でした。
小さなタクシーをひろいました。家にはだれも居ませんでした。い
まやけに火のあつい炬燵にもぐって、このはがきをしたためており
ます。
飯田市は、山と山との間に、落想のように書きおとされた町で
す。どの家々の棟も直接空には続かず、黒い山脈にさえぎられてい
ます。だからみすぼらしい景物がよけいみすぼらしくみえます。や
ぶれた障子、くちた土塀、軒先にくろずんでいるたくさんの干柿。
雑貨屋の赤いのれん、紡績工場のかしいだ煙突、そうして町はずれ
にある小さな夜泣き石の祠。頬のあかい少女、熊の子のような少年
達。ーーみんなみんなとてもみすぼらしくみえます。みんな同じも
のから生れでたようにみえます。こういう風景を眺めていると、だ
からたったひとつの言葉さえみつけだせれば、一切が言いあらわせ
てしまいそうに思える。ーー本当に不思議なものです。では、みな
さんによろしく
31・12・19
育男あて 一二・十三 (その4) [勝野睦人書簡集]
だが「旅人かへらず」の作者の眼には、その黒いオーバーこそ貴
重なのです。
渡し場にしゃがむ
女の淋しき
これは曲者の二行です。この寂しさを不注意に、「待ち人」の淋
しさなどととったらとんでもない誤解だ。そういう人情的なリリシ
ズムは一かけらもない。この作者にとっては「はしばみの実」も、
女のうずくまっている姿も同じなのです。この「女」は、あの鮎川
氏の「ブイ」のように、作者のヴィジョンのさなかで燃えている影
です。なんの影かーーそれは作者の言うように「永遠」の影だとし
ましょう。だが本当は、作者自身の影かもしれない。「淋しい」の
はむしろ作者なのかもしれない。「旅において出会うのは常に自己
自身である」③から……。だとすれば、この詩行にはコレスポンダン
ス(交感)があります。和歌で言う「実相観入」という奴です。
僕はあの詩集をこんな風にしか読めないこんな風といってもこれ
だけではなく、まだいろいろとあるのですが、今のところ整理がつ
かない。その内に又お手紙しましょう。
この書きなぐりの手紙を出ししぶっているところへ、あなたのお
’
葉書が舞い込んできました。詩集をじゃんじゃん読まれるとか、い
’ ’ ’
い傾向です。安西均の「花の店」という詩集がでている筈、あれを
ぜひ買いなさい。損はしません。
あなたの雪どけが待ちどおしい。本当に待ちどおしいです。では
睦 人
十二・十三
育 男 様
①②③は三木清氏の言葉。彼は他にもうまいことを言います。
「健康が恢復期の健康としてしか感じられないところに、現代の根本
的な抒情的、浪漫的な性格がある。」
僕はセンパイの顔を思い出しました。(無論これは冗談です)
注:僕はあの詩集をこんな風にしか読めないこんな風といっても の2回目のこんな風は「こん風」となっており、脱字と思いましたのでなを加えました。
育男あて 一二・十三 (その3) [勝野睦人書簡集]
僕には二通りの「僕」があります。一人はあなたとお喋りをし、
下宿のマダムと喧嘩をし、一人のお上りさんの眼にふと映ずる
「僕」ーーそれは僕というよりも、むしろ単なる人影に過ぎない。
外套の裾をひるがえして馳せ去る、あわただしげな行人に過ぎな
い。この二つの場合の、どちらが本当の「僕」かといえば、かえっ
て僕は後者だと思う。そうしてそのお上りさんがもし詩人だった
ら、僕の「存在」は見抜かれていた筈だ。外燈、プラタナスの落
’ ’
葉、紙屑、旋風(つむじかぜ)……そういったものだけとかかわり合っている「僕」
ーーそういう「僕」が見抜かれた筈だ。その「僕」には勿論性格な
どない。そんなわずらわしいものはない。性格とか、ポケットの中
の小遣いとか、あなたとか(失礼)、順三郎の詩とかいうものは、も
う一人の「僕」にだけかかわるものです。行人としての「僕」の唯
一の意味は、黒いオーバーをまとっていること。それだけに過ぎな
い……そんな気がします。
以下、その4に続きます。
育男あて 一二・十三 (その2) [勝野睦人書簡集]
「旅人かへらず」はいかがでしたか。あの詩集だけは僕にはわか
りすぎる程わかる。詩人が旅人であるという意味は以外に深い。決
して陳腐な言い草とは言えないようです。旅に出るとは生活を失う
ことです。生活者としての自己を放棄することです。人間との、所
謂人間的な交際をたち切ることです。従って僕には「道連れの旅」
などというものは考えられない……。旅において僕たちは本質的に
「観想的」①です。旅人は「為す人ではなくて見る人」②です。ここに
「旅人かへらず」を解く一つの鍵があるような気がする。
女が人形になるせつな
そんな詩行がありましたね。その刹那はとりもなおさずこの作者
が、「為す人」から「見る人」へと移転する刹那ではないのかーー
そんな気がします。
以下、その3へ続きます。
便宜上わけさせてもらいました。註も適宜にさせてもらってます。
①②は三木清氏の言葉。
育男あて 一二・十三 (その1) [勝野睦人書簡集]
二日のお手紙拝見しました。御説はまずまず御尤もです。「まず
まず」と書いたことには意味があります。正直に言ってしまいまし
ょう。僕の詩に関する信念や理論は、僕が詩を書いている最中にし
かない。詩作から少しでも遠のいてしまうと、それらは壁土の落ち
た建物のように、骨組みばかりになって取残されます。骨組みしか
ない理論という奴は一番こわいーーそれはあなたもよくおっしゃる
ことです。
あの時は丁度詩が出来過ぎていた矢先で、それ故にあの説にも真
理があった。だが和尚さん<編集註・和尚さんとは石原氏のこと>
ところでお喋りした時から、どうもいけ
ない。詩が書けない。それであの説も雨晒しになり、透間風が通い
はじめたーーまあそういったところです。だからあなたの駁論に
も、「まずまず」と答えておく以外に手はありません。
以下、その2へ続きます。
便宜上わけさせてもらいました。
竹下育男あて 31・11・24 [勝野睦人書簡集]
(竹下育男あて)
昨日パリー展を見てきました。ルノアールの「赤ネクタイの男」
が出ていますよ。あれはあなたのおっしゃる通り、実に素晴らしい
ものです。ただ、真赤な壁にかけてあるのでどうもよくない。他に
ドービニーのバカでかい風景が一点、それからピカソ、ドランなど
並んでいました。ああいうデパートの会場では絵はダメ、むしろロ
ココ朝の可憐な焼物なんかが、場所を得て光っていました。
× ×
また「旅人かへらず」を読みかえしています。同じ自閉症的な詩
境といっても、田中武などとは格段の違い。例えばこんな詩行で
す。
窓に欅の枯葉が溜る頃/旅に出て/路ばたにいらくさの咲く頃
/帰ってきた/かみそりが錆びていた
あなたは又、「描写」だとか「感想」だとか言われるかもしれな
い。しかしそういうことを言ってもけなしたことにはならない。何
故ならばと始めるとながくなってしまいそうです。この辺にしまし
ょう。
なお、例の「存在」の問題。あれからいろいろ考えてみました。
いつか機会をみてお話します。では
31・11・24